中学3年の秋。私は大好きなサッカーを続けるか悩んでいた。
中学1年生の時、副担任の先生に勧められて始めた電動車椅子サッカーだったが、中学3年の頃になると、進行性の難病による影響で急激に右手が動かなくなってきた。
当時、名古屋のクラブチームに所属していた私は、右手で電動車椅子を操作して、練習や試合をしていたのだが、次第に相手とのボールの競り合いで右手がコントローラーから外れてしまったり、時には試合中、コート上で動けなくなってしまったりすることがあった。電動車椅子サッカーは、通常のサッカーのように11人で行うものではなく、バスケットコート上で4対4で行うルールなので、たった1人でも機能しなくなると、試合が圧倒的に不利になる。
サッカーも学校の体育の授業で行っているくらいの内容であれば話は別だが、学外のクラブチームに所属し、チーム全員が全国大会を目指している以上、私は彼らの足手まといにはなりたくなかった。
考えた末、中学3年の冬ごろ、私は所属していた名古屋のクラブチームをやめた。
中学1年の時、私にサッカーを勧めてくれた先生には、そのことは報告しなかった。何となく言いづらかったし、自分の口から「サッカーやめました」と言うことに抵抗もあった。
それからというもの、私は気持ちが落ち、電動車椅子サッカーのことを考えないようにした。
高校に入学する頃にもなれば、右手の機能がほぼ無くなっていた。そして、完全に電動車椅子を操作することができなくなってしまった。私は、日常生活では電動ではない車椅子になった。学校内での移動はすべて先生による手押しで、自分の意志で動き回ることはできなくなっていた。
もちろん、中学時代のように電動車椅子で自由に動き回りたいし、サッカーだってしたいのは本心だった。サッカーをやっている間は障害者であることを忘れられた。だが、それでも右手が動かないのだから私は仕方がないと思って、半ば投げやりになっていた。
言い返せなかった、先生の言葉
高校2年になった春、転機が訪れた。サッカーを教えてくれた先生が中学部から高等部に異動してきたのだ。先生は私のクラスの担任にはならなかったものの、隣の3年生のクラスの担任になることが分かった。
先生は隣の教室にいる私を見かけると、「サッカーは続けてるか?」と言ってきたが、電動車椅子に乗っていない私を見るなり、何かを察した様子だった。そして、何やら言葉を探しているようにも見えた。
「先生僕さ、右手使えなくて電動車椅子すら操作できなくなっちゃって。あっ、でも、車椅子になっても誰かが押してくれるから前より楽チンで……」
そうやって私が先に強がりを言うと、「そっか」と言い、先生は続けてこう言った。
「別に車椅子を押してもらうのが悪いわけじゃないが、車椅子を押してもらいながら何かをすることで、お前の中で何か意味は生まれるのか?」
私は返す言葉がなかった。他の先生は皆「別に電動車椅子で自由に動けなくても、体育の授業でも友達との掃除でも、先生たちが車椅子を押すから心配ないよ」と言ってくれたが、正直、心のなかで醜くこう思っていた。
(その車椅子に僕が乗っている意味はありますか)と。
私は一呼吸をおいて、「とはいえ、どうしようもないことだってありますよね」と笑いながら言うと、先生は「ごちゃごちゃ言うな」と初めて私にサッカーを教えてくれた日と同じセリフを言った。
少し後から聞いた話だが、先生は私がサッカーを辞めていたことは事前に知っていた。そして、中学から高等部に上がった私が気がかりで、学校側に高等部に異動したいとの申し出をしていたようだった。
それを聞いた私は、どうしてもそんな先生の期待に応えたくなった。中学時代、先生はサッカーの練習中に「お前はプレーでもすぐに調子に乗るのが難だが、その最後の最後までの諦めの悪さは大切にしろよ」と言っていたことを思い出した。
私はもう一度、サッカーをする方法がないか本気で考えた。先生との会話から、諦めるという選択肢を自分の中から外してみたくなった。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル